どちらが善し悪しの話ではなく、私は根本的には学歴で収入に大きく格差が
生まれる社会構造
よく奨学金関連では
「なんのために奨学金借りてまで大学に行って返せないとかいうのか」
「私は大学行ってもなんもないから就職しました」
みたいなもの見ますけど、こういっちゃあれですけど
「学歴格差の遺伝」
これに尽きると思います
見ている世界が違う(正確には世界を見る際のフィルターが異なる)のです
(あくまでマクロにとらえ統計的確率的に考えて)
大学に行くことが当たり前の家庭では大学に「行かない理由」を考えさせられ、
大学に行かないことが当たり前の家庭では大学に「行く理由」を考えさせられます
結局は前提の違いです
「行かない理由」を考えるということは「行くこと」が前提にありますし、
「行く理由」を考えるということは「行かないこ」とが前提にあります。
この前提の違いがどこから生じるかと言えば家庭環境・教育です。
これがある時点で高学歴の家庭にうまれれば高学歴になる確率が大きくなりますし、
そうじゃない家庭ではそうならない確率が大きくなります
すなわち親世代の学歴格差の遺伝です。
もうひとつあると思うのは親のコンプレックスと自己正当化です。
親が大学に行っているということは少なくとも親は大学に行ける家庭の経済状況であり、行く行かないの選択が可能であった
一方で大学には行くことが「できなかった」人もおり、そこに自己選択の介入する余地はありません
ある種希望がかなわなかった自分の人生を正当化するために「大学なんて行かなくて正解」と自分に言い聞かせ、それを子に説きます。
全国的に多いかはわかりませんが、自分の地元の田舎ではそんな家庭は決して少なくなかったと感じています。
あとは、当然ですが学歴は成功を保証するものではなく、比較的高い確率で成功することができるレールに乗るためのチケットです。
もちろん大学なんて行かなくても成功している方はいますし、大学に行っても定収入の方もいます
が、学歴と収入の関係性を見たときに正の相関関係を持つことは明らかです。
そうなるのは大卒の方が好待遇の大手企業にいくことができる可能性が大きく高まるからであり、
少なくとも今の日本において大卒というのがエントリーの条件であることは少なくありません。
もちろん学歴を得ればそれを活かさないという選択をとることもできますが、学歴をえなければそもそも選択肢すら得られません。
また、学歴は自分の世界を変えるチケットです。
転職において持っているスキルが重要であるように、人生で何を学んだかです。
人生を通じて自分の田舎のコミュニティで生きていくスキル、処世術を学んでも、それは他の、グローバルな世界では必要とされるスキルではありません。
僕は学歴を得なければ多分こんなことを考える、気づくこともなく地元の田舎で生きていましたし、そこから出ることを考えることもなかったでしょう。
ただし、僕の根本的な思想としては、現在の学歴が収入に直結しかねない構造に疑問を持っています。
すなわち先で述べたようにより高い確率で好待遇の企業に行く選択肢をとることはできず、それが生活格差に繋がることに疑問を覚えます。
大学でやることなんて大抵社会では何の役にも立たないのにそれが評価される仕組みです。
もちろん学歴が高いことは地頭がいい確率が高まり、それは仕事における汎用的な能力です。
その汎用的な能力を持っていることを「示す」ためだけに何の関係もないアカデミックの世界で4年間時間を消費するのは社会的に無駄ではないかという考えです。
また、社会にはいらない仕事ありません(将来的に要らなくなりうるものはある)
どんな仕事も誰かの生活や社会を支える上で必要な仕事です。
田舎の農家なんかも間違いなく必要であるのですが、そこに生活が困窮するような収入しか入らない社会構造がなーーーと感じています。
誤解を招きそうですが、僕は共産主義ではなく資本主義の人間です。
理由は個人の努力がきちんと利得へ結びつかないことは非合理的だと考えるからです。
が、今の世界では資本主義だけでは構造の維持に限界がきてるのかなーと。
すなわちこれまでは資本主義において社会が成立する程度の社会格差であったのが、その格差の拡大によるひずみがでてるんじゃないかと。
かといってベーシックインカムなんかあったら働かない人、価値を生み出さない人はたくさんでると思いますし、それを支える人間のタックスヘイブンも当然起こります。
僕でもそうします。
収入が得られるのであれば租税逃避しますし、得られないのであればベーシックインカムに頼ってダラダラ生きます。
あーーーーーーやることたくさんあるのになんでこんな駄文書いてるんだか
やらなきゃいけないことありすぎると違うことしたくなりますよね